| 記憶の記録 |
| 最近になってふと思うことがある。 お父さんの背はどれくらいあったんだろうか。 でっかかったよなあ、とは思うのだけど、具体的な指標がない。 一体どのくらい大きかったんだろう? 子供の頃天祥は、人に「お父さんってどんな人?」と聞かれると、必ず「すごくおっきいよ」と答えた。 するとたいてい、聞いた相手は「それじゃ、わかんないよ」と言ったけれど、天祥にはそれ以上うまく説明できなかった。 時に「他には?」と畳みかけられることもあって、そんな時には苦し紛れに「あとねえ、すごく強いよ」とは言ってみたけれど、その頃の彼にとって「大きい」と「強い」は同じことだったので、あまり意味のある説明とは思われなかった。 「大きい」と「強い」はどちらも父のことで、だから同じ意味だ。 小さくても強い人はいると言われれば、それはそうで、知らないわけではないけれど、そのことについては深く考えなかっただけで、お父さんは大きくて強かったので、「大きい」と「強い」は同じことなんだと漠然と思っていた。 だから、何度人に聞かれても、天祥は「お父さんは大きい」と言って、それで全部説明した気になってしまったのだ。 更に言うなら彼の父親は武成王で、とてもエライ人だった。 天祥もそのことはよく承知していたし、ときに兵達が憧れと尊敬の眼差しで自分の父親を見上げているのを見ると、なにか自分まで誉められたような誇らしい気持ちになったものだ。 でも父親が武成王であることは、まだ幼かった彼には直接生活に関係してくることはなかったので、それは「ちゃんと知っている」という、それだけのことだった。 彼の中でハッキリとわかることは「お父さんはおっきい」ということで、それ以上は彼にとって関係なかった。 子供の頃は、ずいぶん大きく見えたけれども、結局どれだけ大きかったのだろう? 最近、それがひどく気になる。 父の生前、自分の背は父の腰より下で、膝より上、というカンジだった。 あの頃に較べて自分もだいぶ背が伸びたので(まだチビの部類ではあるけれども)あの頃の視点は当てにならない。 当時からの知己の姿に比較対象を求めてみても、とにかく頭一つ分よりももっとあった、ということを覚えているばかりで、では「もっと」とは具体的にどれくらいだったかと言うとそれはやはり曖昧で、誰に聞いても「さあ、これくらいかな…」というばかりでハッキリしない。 天井よりは低かったけど、箪笥よりは大きかったなあ、と家の中で面影を求めてみても、天井と箪笥の間には相当な空間があって、やはりわからない。 外を見て確かあの木より高かった、などと考えてみても、その木は成長しているし、時に剪定もされているので、それも当てにならない。 いくら探しても首を捻っても、このくらいだった、という具体的な答えは出てこなくて、しまいには本当にいたのかしら、いたとしても自分が思っていたほど大きくはなかったのかもしれない、とぐるぐる思う。 何か自分は夢を見ていたのかも知れない、とすら… 大きかったことは間違いないだろう。 昔を知る年長の友人達が口を揃えて「大きかった」と言うのだから。 でも記憶の中にいる世界一大きくて絶対誰にも負けないお父さんは、あるいは幼かった自分が作り上げた勝手な幻影だったのかもしれない。 それはもう、確かめる術もないのだ。 その日、天祥は仕事で豊邑と水関との間、岐山の麓にある小さな町に来ていた。 今や周の将軍である彼の仕事は主に人を襲う妖怪仙人を退治することで、彼は首尾よく仕事を終え、帰る前に一服お茶でも飲もうかと町の中に入っていったのだった。 愛想のいい初老の主人にお茶と点心を頼んで、ふっと一息つくと見るとも無しに店の中を見回す。 その店は、この小さな町の中では大きい方で、1階で食堂を営み、2階3階では宿屋もやっているようだった。 調度品もかろうじてそこそこのものを揃えている。 ふと、自分はこの店を知っている、と思う。 以前来たことがあるかも知れない。豊邑に近いこの場所を町の名さえ知らず通ることがあっても不思議ではない。 来たかもな、と思って、でもそれ以上気にも留めず、通りに面した開け放された入り口から外を眺めていると主人が注文の品を運んできた。 「お待ちどうさまでした。」 もうじき日が沈む夕食前の半端な時間にお茶を飲もうという客は他に無く、そこそこに広い店内に客は天祥一人だ。 退屈していたらしい人なつっこそうなオヤジはお盆の上の物を机に載せた後、立ち去る素振りも見せず話しかけてきた。 「お客さん、お仕事のお帰りで?」 「ああ、うん。そう。」 「お家はこの近くですか」 「んー、まあ…豊邑。」 「へえっ?」 主人は妙な声を上げる。 「これから豊邑に帰りなさるんで?お客さん、そりゃやめた方がいい。 もう日が落ちますよ。今からじゃつくのは朝になっちまう!」 「うーん、まあねえ」 実際、思案のしどころなのだ。 彼の足であれば夜中中にはつけるだろう。 仕事を無事遂行した報告は早いほうがいい。 しかし夜中では報告しようにも謁見できない。 ならば今日はここに泊まって、明日明け方に発てば同じことではないだろうか? 「それにね、聞いてませんか?」 主人は急に声を潜めて顔を近づけてきた。 「最近夜になると岐山の麓に妙なやつらが出ましてね。もう旅人が何人も犠牲になってるんで。悪いことは言いません、お客さん、やめた方がいい」 その「妙な奴ら」はさっき全部始末したからもう大丈夫なんだけどね、と天祥は心の中でつぶやきつつ、口では「うーん、そうだなあ…」と曖昧に答えた。 その「妙な奴ら」とやり合ったせいで結構くたびれてしまった。 別に取り立てて強敵ではなかったけれど、それでも疲れるは疲れる。 正直、このまま夜っぴて歩くのは考えただけでだるかった。 「じゃあ…部屋、空いてる?」 「へえ、勿論で!」 嬉しそうに即答するオヤジを見上げて、天祥は「こいつ、商売上手だな」と苦笑する。 「じゃあここに名前を書いていただいて…」と持ってきた宿帳に記帳すると、それを受け取ったオヤジが、また「へええっ?」と頓狂な声を上げた。 「黄天祥…と言いますと、あの黄家の方で?」 マジマジと見つめる主人の顔を見返しもせず「そうだけど。」とぞんざいに答える。 朝歌にいた頃程ではないにしろ、周でも「黄家」は名門として認知されていたし、しかも自分は将軍だ。こういった反応は珍しくなかった。 やたら大仰に平伏されたり、もてなされたりすることも多かったが、天祥自身はそういうことをされるのが好きではなかった。 それで主人に釘を差そうと顔を上げて、しかし思いも寄らぬ言葉を聞いた。 「ああ、それでは武成王の…。ああ、ああ、そうですか。言われてみれば確かに面影がある。」 感慨深げに自分の顔を覗き込む主人に、天祥は驚いて訊ねた。 「お父さんを知っているんですか?」 「知っています。いえ、知っているとは言えませんが。一度拝顔したばかりですから…。天祥様というと、末のご子息ですな。あなた様もその時いらっしゃいました。」 主人は目を細めて独り言のようにつぶやく。 「あんなにお小さかったのに…。将軍におなりになったと聞いて、あの小さな子がと驚きましたが、ご立派になられて…」 そこまで言ってふと我に返ったらしい。 「あ、いや、これは失礼なことを申し上げました。年を取るとどうも感傷的になって」 苦笑して部屋へ案内するために体の向きを変える主人を天祥は引き留めた。 「それ、いつの話ですか!?」 「はあ、かれこれ10年以上前…。覚えておいでになりませんか?急に武成王の一族がこの町に現れて、随分と仰天したものです。」 それを聞いて、ふいに心の奥底から湧き出した記憶があった。 「あとで聞きましたが、殷を造反して豊邑に向かっていたところだったとか。そうそう、仙人様もいらっしゃって、初めて霊獣という物を見ましたよ。」 懐かしそうに語る主人の声を、彼は既に聞いていなかった。 そうだ。 朝歌を脱して豊邑に向かい、明日には豊邑につく、その時にこの町を通ったのだ。 もう少し先に行って森の中にテントを張っても良かったのだけれども、明日姫昌様に謁見するのに、湯も使っていないのはまずいだろうということになって、この町で宿を求めた。 それで、この町で一番大きい宿屋だというのでここに案内され、そして… ふっとある光景が蘇る。 いままですっかり忘れていたのに。 「あの時の部屋、空いてますか!?」 急に大声を出したので、店の主人は一瞬呆気にとられ、それから破顔した。 「はい、もちろん。ご用意しましょうか?」 「お願いします!」 「あの部屋はウチで一番いいお部屋だったんですけどねえ」 おかしそうに笑いながら主人は階段へと天祥を案内する。 「でも、あなた様なら問題なくおくつろぎになれますよ」 その時、結局彼らはその宿に泊まらなかったのだ。 食堂に当たる1階は天井を高くしつらえてあったが、階段を上がった2階から上は民家よりやや天井高がある、という程度の高さで、大男の武成王が上がると頭こそつかえなかったが、かなりせまっくるしく感じられた。 そこに武成王が居心地悪そうに座っていると、部屋の何もかもが出来の悪いミニチュアのように見えてしまう有様で、「大将がこれじゃなあ」とか何とか言って四大金剛の誰だったかがこの町で一番大きい屋敷を持つ名士に話を付けて来て、それで、彼らはその屋敷の世話になった。 入ってすぐまた出てしまったので、そんなことがあったことすら忘れていた。 そして、部屋を出る時、うっかり父は入り口の框に頭をぶつけたのだ。 天井より当然低い位置にある框は丁度父の額の高さで、入る時には気をつけていたのに、出る時にしたたかにぶつけてしまい、スゴイ音がして、壁が揺れた。 「いっっって〜」と呻きながら、それでも父が苦笑いしつつ、「ゴメンな」と言うカンジで框をなでて行った光景がなんだかおかしい、と思って眺めていたっけ。 「ここですよ。覚えていらっしゃいますか?」 扉を開けながら主人が振り返る。 天祥は開いた扉から覗く部屋の内装ではなく、扉の上の框を見ていた。 彼が返事をしないことを何と思ったか、主人はフォローめいたことを言う。 「まあ、お小さかったですし、すぐに出て行かれましたからねえ。 覚えていらっしゃらずとも無理はないです。」 「内装も少し変わりましたし」などとつぶやきながら彼は部屋の奥の窓を開け部屋に風を入れる。 部屋の真ん中で突っ立ったまま返事をしない天祥に気を遣って、主人はそれ以上何も言わなかった。 かろうじて部屋を出る時思い出したように振り返り「そうそう、お湯は使われますか?ご用意しますが」と確認し、天祥が「そうだね、でも後でいい。少し休みたいんだ。」と答えると、心得たと言う顔で頷き、扉を閉めた。 扉の閉まる音を聞いて、部屋に入ったままの格好で突っ立ていた天祥はようやく振り返り、もう一度扉の上を見る。 そうだ、あの位置だ。 あの高さがちょうどお父さんの額の高さ。 だからあそこに頭があって、目があって、鼻があって… 記憶の中にある父の姿を思い浮かべる。 あの辺が肩で、あの辺が腰で、僕はあのくらいで……… 下へと落としていった目線を再び上げて、框を見上げる。 こんなところに額をぶつける人が居るとは信じられない程、框は高い位置にあった。 「…でっかいなあ…」 部屋の天井だって、屋敷ほど高くはないが、十分な高さがあるきちんとした部屋だ。 天祥が一人で泊まるには広すぎるほど広い。 でもあの時は本当にせまっくるしくて、やはり宿屋じゃダメだなあなんて言っていたのを覚えている。(誰が言ったかまでは覚えていないけれど) 「本当に、でっかかったんだなあ」 框の下まで行って手を伸ばす。 あとちょっとで届かなくて、背伸びしてやっと指の先がかする。 框だってびっくりしただろう。額をぶつける人がいるなんて。 あの時の光景を思い出して、自然に笑いがこみ上げる。 ひとりでクックと笑っていたら、何故か鼻の奥がつんとした。 やっぱりいたんだ。 ここにいたんだ。 すごく大きなお父さんは、確かにいたんだ。 そんなことを思ったら、途端に止まらなくなって、涙がぽたぽた落ちた。 悲しいのか嬉しいのか、何で泣かなくちゃいけないのか全然わからなかったけれど、 とにかく涙は止まらなくて 彼は体を折って声を殺し、静かに静かに泣いていた。 了 |