君のためのしるべ

プシュー
小さな音を立ててスーツが開く。
空調まで完全に管理されていたスーツの中に、少し肌寒い外気が流れ込んできた。
彼はゆっくりと体を起こし、しばらくぼんやりと前方を眺めた後、静かに腕を持ち上げてみる。
顔の前に手のひらをかざし、指を閉じ、また開く。
それを何度か繰り返し、ようやく(よし、動く。)と思う。
動くことはわかっていたのだが、なんとなく確認せずにはおれなかったのだ。
幾度かまばたきし、首をゆっくり左右に振って周囲を眺め、それから大きく息を吸い込む。
(うん、呼吸の仕方も忘れていない。)
ようやく、今まで身を包んでいたスーツから身を起こす。
(歩けるかどうかは…まあいいや。めんどくさいから。)
気を操って体を宙に浮かした。
久しぶりに肌に感じる風の感触が気持ち良かった。


「おやおや、黒点虎に聞いた時には耳を疑いましたが、本当だったようですね。
今度は何が起きるのですか?」
しばし目を閉じて初春の空気を感じていると、挨拶も抜きでぶしつけに声をかけたものがあった。
彼が来ることはとっくに予見済みだったので、目を開けることもせずに応じる。
「…私だってたまには外に出たくなるのさ。
勝手に覗いているのはかまわないけど、邪魔はしないでもらいたいね」
彼――申公豹は目を開けようともしない師を物言いたげに見つめたが、小さくため息をついて口を閉ざす。
どうやら教える気はないらしい。
おそらく事情があってではなく、説明するのがめんどくさいために。
隠すつもりはないようなので、お言葉に甘えてそのまま事態を見守ることにする。
『老子が起きた』以上にセンセーショナルなことはどうやら起こりそうもなさそうな事でもあるし。

2人(と1匹)が黙ったまま佇んで、しばし。
周囲を見渡していた黒点虎が「あっ」と声を漏らした。
「人が来るよ。馬に乗ってる。」
「ほう。」黒点虎が示した方向を眺めて、申公豹が問う。
「誰ですか?」
黒点虎がその名を口にすると、申公豹は一瞬意外そうな顔をして、老子を見やる。
彼はいつの間にか目を開けて、草原の彼方を見詰めていた。
地平線の彼方、そうといわれてようやく気づく程度の小さな小さな点。
それがわずかずつ近づいてくるのを黙って見守るその瞳を見て、申公豹はようやく何もかも飲み込んで、小さく笑った。
「なるほど、わかりました。
たしかにお邪魔をするのは無粋なようですね。」
老子は傍に何者もいないかのように無反応なままだ。
「さ、黒点虎。我々は見えないところまで退散するとしましょう。」
「えー、そうなの?」
僕も会いたかったな、などとぶつぶつ言いながら、霊獣はふわりと空を舞う。
彼らが人間の視界に入らぬほど遠ざかった頃にはまだ、小さな点はようやくそれが馬が駆けて起こす砂埃だとわかる程度にしか近づいていなかった。

==========

1週間前、豊邑。
ジョカによる破壊からはや1年。ようやく国内の整備に追われるような激務の日々にひと段落がつき、細々とした雑務はきりがないものの、先々に思いを馳せる余裕が出来てきたある日のこと。
「君らしくないね」
執務室で書簡に目を落としていた邑姜は唐突に声をかけられて、ビクリと体を震わせた。
いつの間にか目の前に老子の立体映像が浮かんでいる。
「え、そう…いえ、ちょっと考え事をしていたので。あ、結論は出ているのですが」
慌てて手にしていた政務資料を机に下ろす。
「いえ、お久しぶりです、老子。どうなさったのですか?」
すっかり混乱した話しぶりに彼女の狼狽が見て取れる。
彼はいつもそうだ。
こちらからはいくら呼んでもタイミングが合わないと立体映像との交信すら出来ないのに、むこうが用のある時には彼女が装着している交信機を通して突然呼びかけてくる。
子供の頃は、こちらが着替えていたりトイレに入っていたりしたらどうする気だろうといささか心配したものだけれど、どうやらそれは杞憂だったようだ。
彼は決まって彼女が一人で考え事をしているときに現れる。
時間をわたり全てを見通すことの出来る彼にしてみれば、現れるタイミングを計ることなど造作もなく、当たり前のことなのだ。
ともあれ、あいかわらず絶妙のタイミングで現れた老子は彼女の問いには応えずに瞳を静かに見返した。
「邑姜、どれほど悩んでも、流れは決して変わらないよ」
「もちろんそれは…各国の自治に干渉することは最低限…」手元の資料について話しかけて、あわてて口をつぐむ。老子がいちいち一国の政務などという瑣末事に口を挟むわけもない。彼が言っているのはそのことではないのだ。
彼が何を云わんとしているのか…心当たりはある。あるがしかし、彼が、それこそもっと瑣末なそんなことに口を挟むために現れたりするだろうか…?
いまひとつ確信を持てずに邑姜も問うように老子の深い瞳を見詰め返す。
ふいに感情の読み取りにくい彼の表情がやわらかく緩んだ。
しかし、彼の口から出たのはしごく冷静な言葉。
「迷いはものを見る目を曇らせる。」
やはりそのことか、と彼女は身を堅くした。
「迷っているんだね?」
今度の言い方は優しい。
答える言葉を捜すうち、ふいに目頭が熱くなった。
「………はい」
ようやくそれだけ、喉の奥から搾り出す。
これ以上口を開こうとすれば、気持ちが先に目尻から溢れ出してしまいそうだった。

―――そうだ、迷っている。
昨日、武王からの申し入れられた、その返事を。
夕べはおかげでほとんど眠れなかった。
一晩中、考えて、考えて、答えが出ない。何故出ないのかすらわからない。
申し分のない話だと思う。政治的にも利益の多い良い話だ。自分でもいつかそうなることをどこかで予期していた。そして、それを拒む理由は何も無い。
周の王である武王と、姜族の頭領である自分の婚姻。
いままで虐げてこられた姜族がついに名誉を挽回し、地位を得るチャンスでもある。
また、実質上武王の補佐をしている今の立場を考えていても、自分の地位が固まることはより政務をスムーズに運ぶ助けとなり、国に利益をもたらすだろう。
そして。
そして、何より。
彼女はその話が嫌ではなかった。
それどころか、むしろ…

それなのに、なぜ答えが出ないのか。
いつか来ることと半ば覚悟していたのに、夕べ申し入れられた瞬間、彼女はひどく逃げ出したいような気持ちになったのだった。
自分でも不可解な感情。それは恐怖にも似ていた。自分が何を恐れているのか、それすらわからぬまま、彼女は震える声で彼に返答の猶予を求め、彼は応じた。
それからずっと、考えている。
自分が何を考えているのかを、考えている。


「迷っているんだね?」
そう聞かれて、彼女は自分が迷っていることを自覚した。
迷うようなことではない、答えは出ていると思えばこそ、自分の迷いに気づけなかった。
――そうだ、私は迷っている。
「こわ…怖いんで…す」
迷いを自覚した途端、指が震えだす。ひざの上で強く手を握り締めた。
時が流れていく。なにもかもが変わっていく。
武王は頼もしくなった。軽口ばかり叩く癖は相変わらずだが、紂王を倒し周の勝利を宣言して以来、腹が据わったようだ。ぶちぶちと文句をいいつつも最後は全て背負って立つその器は十分信頼を寄せるに足るもので、もはや臣下に武王に不信感を持つものなど見当たらなかった。もちろん、その『臣下』には彼女も含まれている。
喜ばしいことだ。その筈なのに…
何故か、そのことに時々不安になる。
いきなりそんなに背負い込むことは無いのだと言いたくなる。
王が責任感を持って政務をこなすのは当然のことなのに。自分がそうあれと説教したはずなのに。彼がなすべきことを着々と果たすその姿を見ていると、そんなに順調に全てを片付けないで欲しいとすら思うのだ。
まるで―――生き急いでいるようで―――…

「時は止められないよ、邑姜。」
彼女の心を見透かすように老子は語りかける。
「すべてに流れが存在する。流れに逆らう者は何も得られない。
流されるのではなく、うまく流れに乗りなさい。流れを利用するんだよ」
子供の頃から幾度も聞かされた言葉。
わかっていても、でも、と抗う気持ちがある。
心の迷いが彼女の聡明な目を曇らせる。

「…なぜ、感情は存在するのでしょう?」
震える声でようやく搾り出す。
感情をはさまなければ、すべては簡単なことなのに。この厄介な代物が理屈を凌駕して心をかき乱す。
「感情とはどこから湧くものなのでしょうか?」
すがるように老子を見返した。
「…自分で自分が分からないんです。」
大きな瞳に涙をためて必死な眼をする彼女を見詰めて、老子はひそかに感慨を覚えた。
――娘らしい顔をするようになった…
彼女を、美しい、と思う。
とうの昔に情欲など捨ててしまったけれど。あらゆることに対する執着心を捨ててもなお、世界を美しいと思う気持ちまではなくならなかった。何千年もの間、繰り返し見続けてきても、朝焼けを美しいと感じ、蒼穹に眼を奪われる。花々がほころべば心動かされ、子猫がじゃれる様子を見れば愛らしいと感じる。そして今、年頃になった愛娘を見詰め、やはり彼は「美しい」と思う。
欲望を全て捨ててなお、感じる心だけは残るのだ。
――感情とはどこから湧くものなんだろうね?
心の中で老子もまた苦笑する。
それだけは人間が常に答えを求め続け、しかし、種の寿命を迎え完全に死に絶えてしまう遠い遠い未来にも、やはり答えの出ない永遠の謎だった。

邑姜の問いに答える代わりに、老子は静かに語りかけた。
「君にはいずれ、大きな悲しみが訪れるだろう」
彼女はハッと眼を見開いた。それ一言で、彼女はその意味するところを悟ってしまったらしい。その顔を見て彼は憐れに思う。彼女がもっと愚鈍な人間であれば、こうも未来に怯え立ち竦むこともないだろうに。わかりすぎてしまう、そのことが、彼女にはまだ負担になりすぎる。『知らない方が幸せ』なんて、愚かしいことをいうつもりは無いけれど。
「そして、それ以上に大きな幸せが、君を待っている。」
せめて彼女の悲しみを少しでも和らげようと、優しく微笑みながらそれだけ云った。
人間に具体的な未来を教えることは出来ない。自然に逆らうようなことをすれば、それは必ず災いを呼ぶから。
しかし、彼女にはこれだけで十分なはずだった。聡明な彼女であれば。
「時間は決して止まらない。だから、流れに乗りなさい。
流れに抗い、届かぬものに手を伸ばしていては、得られた筈のものまで失ってしまう。得るべきものを見定めなさい。時期を正確に捉えなさい。悔やまずにすむように。」

「流れはけっして変わらない…」
彼女は虚ろに繰り返した。
「…時間は止まらない。」
そうだ。わかっていた、本当は。
ならば必要なのは覚悟をすることだけ。
迷いとは『自分の心の弱さ』なのだから。
 
たとえ自分が懸念する不安がいつか現実のものになるとしても、それが杞憂に終わるとしても。
自分に出来ることは、自らの元に流れ込む運命を受け入れ、悔いを残さぬよう進むことだけ。

今度こそ、彼女はまっすぐ老子の瞳を見返した。
「…ハイ。」
彼女の心は決まったようだ。
老子は彼女のやや青ざめた顔を見た。それから、小さく震える細い腕を、か細い体を。こんなにも華奢な体で、彼女はたった一人、大きな運命を受け入れる決意をしている。それが、ひどく愛おしく、憐れだ。
――ああ、そうか…
彼はやっとひとつのことに気がついた。
「邑姜、1週間後、私のところにおいで」
「え?」
「君に、贈るものがあるんだ」
優しく、今まで一度も見なかったほど優しい微笑を浮かべて、老子は言った。
「いいかい?必ず来るんだよ」
一方的に念を押すと、彼女の返事も待たず彼の立体映像は掻き消えた。
「…老子?」
一人、執務室に取り残され、彼女は呆気にとられて立ち尽くすばかりだった。


==========


初春の肌寒い空気を味わいながら、老子は考えていた。
感情とは厄介なものだと。
それを完全に制することは誰にも出来ない。
だからこそ全てのものと関わりを絶つことで、彼は『永劫』を手に入れた。
なのに、その禁を犯して邑姜を育てることにしたのは、封神計画のため。
以前、弟子である申公豹にも指摘された。
「太公望に太極図を与えた時点でもうあなたは関わっているのですよ」と。
太極図を与えるどころか、そのずっと以前から、自分は深く深く関わっていたのだ。
世俗の一切に関わるまいと思っていたのに、彼がそれに手を貸した理由は、原始天尊にかつて見なかったほどの情熱で協力を求められたことも関係なくは無かったが、それ以上に宇宙人だという『王奕』なる者への興味の為。彼と会い、その話を聞いて、ついぞ無くしていた好奇心が刺激されたのだ。地球上の全ては知ってしまった。しかし、その先にさらに見知らぬ世界がある。それは心動かされるに十分なことであった。
王奕の求めに応じ、彼は計画に欠かすことの出来ない才能として邑姜を見出し、教育し、実地で『統治』を学ばせるために巨大なシュミレーション施設である桃源郷を作り上げた。
彼にとってはその程度造作もないことではあったが、その様に彼が世俗に関わること自体が非常に稀有なことでもあった。

――それが、良いことだったのか、悪いことだったのか…
地平線を見詰めたまま、老子は我知らず苦笑を浮かべる。
例えそれが完全な作為の基に作られ外界から切り離された箱庭であっても、たった一人の娘であっても、『世俗』に干渉したその瞬間から、彼は個として『存在』し、『永劫』から乖離した。
老子は現世に干渉しない限り『無』であり、それはすなわち『永劫』であった。
彼は時を超え全てを見通すことが出来た。
その時間軸に存在せずともその全てを知ることが出来るのなら、それはそこに存在していることと変わらない。
彼は一切に対して無為の人であった。
その時間軸に存在していても、その一切に関わらないのであれば、それはそこに存在していないことと変わらない。
だから彼は全ての時間に居るとも言え、全ての時間に居ないとも言えるのだ。
それがすなわち、『無』であり『永劫』であるということ。
しかし現世と関わった瞬間から、どれほど高い功夫を積んでいても、彼は一個人となる。
そして『人』は『人』である限り『感情』という執着に束縛される。
娘を『愛おしい』と思うことは立派にひとつの我欲であった。
――これだからイヤだったんだよね…
今更言ってみても仕方ないことではあるが。
彼女を育てる間も彼は一度も怠惰スーツから出なかった。
肉体と精神は密接に影響を及ぼし合う。
どれほど功夫を積んだところでこの関連を断ち切ることは出来ない。
だからこそ、彼は彼女を一度も抱き上げなかったばかりか、肉声で会話することすらしなかった。
そこまで距離を置いてなお、視覚の刺激が彼の精神に影響を及ぼすことまでは阻止し得なかったのだ。
自分がたかだか一人の人間の行く末に心悩ませるとは。

彼方に見えた点は、もう肉眼でそれが馬に乗った人だとわかるくらいになっていた。
もう間もなく、つややかな黒い髪やいきいきとした大きな瞳、華奢な体型までわかるほどになるだろう。

考えてみれば、王奕に好奇心を動かされた時点で彼は我欲に負けたのだ。
今更そのことで引き起こされる自分の変化――愛着を否定したところで始まらない。
彼の一生を思えば、それはごくわずかで、ごく一時的な変化。この流れもまた、ただ受け入れれば良い。
そう、あの時気づいた。
ならば今自分がすべきことは、彼女に言葉をかけることではないと。


彼女を迎えるために彼は宙空に浮かしていた体をゆっくりと降ろし、何千年か振りに自分の足で地に立った。
地に芽吹く若草の香りがわずかに香って彼の鼻腔をくすぐる。
今、この一瞬だけ、彼は『人』へと立ち返るのだ。



さあ、おいで、我が娘よ。
義父として、君に抱擁を贈ろう。
君の未来を祝福するために。



愛をこめて。 






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