月と太陽

夫は太陽に似ている、と彼女は思っていた。
いつも陽気で明るくてよく笑う。
彼の周りには引き寄せられるようにいつも人が集まってきて、その中心で一際目立つ彼は、太陽に似ている。


その彼と彼女が二人きりになるのは本物の太陽が沈んだ後だけだった。
大家族の屋敷の中には一人きりになる場所も二人だけになれる時間も存在しなくて、唯一『寝室』だけが、あたかもすべての世界から切り離された場所のように静寂をまとって浮遊していた。扉を閉めてその宇宙に閉じ籠もると、そこには朝から連綿と続く『時間』から切り離された別の『時間』が流れていて、そこで彼は彼であって彼でなく、彼女は彼女であって彼女ではなかった。

いつも陽気な夫はそこではいたって無口だ。
彼女が静かに今日一日の家のことを報告するのを黙って聞いている。
大抵は聞いているのかどうかわからないくらい無反応で、たまに静かに微笑むのは子供の失敗や悪戯の話をする時だ。
内容が相談事の時はしばらく考え込むことはあっても、必ずその場で答えを出した。
よほど複雑な問題でない限り、答えを保留することはない。
その回答に迷いがある時、自信がない時に、後日その結果の報告を促したり、思い出したように訂正の旨を伝えることもあったが、とにかくその場で一応の回答を出すのが彼の性分であるらしかった。

彼がそこで自分のことを話すことはない。
彼女が必要なことを全て話し終えると、その日の会話は全て終了で、静寂がその存在を主張し始める。それで彼女は窓の外で待機している暗闇からかろうじて室内を守っている小さな明かりを休ませて、そこで静寂は全てを支配して満足げに息を付く。

月の明るい夜にはその光が寝室にまで忍び込んで来た。
そこにあるだけで静寂を蹴散らしてしまうような昼の光と違い、月の光はその静寂すら優しく包み込むかのようである。
自分の隣で静かに寝息を立てる夫の寝顔を見ながら、月に世界をゆだねた後は太陽も静かに眠るのだと思う。町の向こうに、山の裾野に沈んだ太陽はその下で静かに休むのだ。
朝が来るまで…


時にその太陽は、支配する世界を譲り渡した後も、休む方法を忘れてしまったかのように目を開けていることがある。
布団の中で身じろぎもせず天井を睨んでいる夫に静かに声を掛ける。
「眠れませんの?」
「ん?……」
曖昧に微笑んだのが僅かな月明かりとかすかな気配で分かる。
「いいから、オメーは寝ろよ」
思いやりを示す夫は同時にどこか上の空だ。
「私も眠れませんの」
答えて賈氏は静かに微笑む。
夫は今度はハッキリ笑んで、返事はしない。
すでに支配を邪魔された静寂は不服そうに部屋の隅にわだかまり、主役のはけたステージは次の出し物を待ちかまえている。
間の悪い沈黙を誤魔化そうと「月が明るいせいかしら…」とつぶやく言葉に意味はないし、だからそれにたいする返事も当然ない。
夫の眠りを妨げる原因を聞いてみたところで彼女にはわからないことだろうし、そもそも彼が口にするはずもないので、それ以上言葉が見つからず、仕方なく目をつぶった。
静寂が再び自分の出番を伺い始めた頃、僅かに隣で身じろぎする気配があって髪の先に感触があった。
目を開けると夫がこちらに体を傾けて彼女の髪をいじっている。
髪を一束つまんでは指先に巻き付け手を離す。弾力のある彼女の髪はいきおいよくクルクルはじけて指先から滑り落ちた。
彼はそれを生まれて初めて見るもののように、飽かずに幾度も繰り返す。
しかし指先の一点に視線を向けた彼の瞳は何も映していなかった。
その髪を彼に預けたまま、彼女も僅かに身じろいで彼の方に体を傾ける。
彼女の白い白い腕が漆黒の髪の上に投げ出され、月の光を受けたそれは、自身が発光しているかのように白くにじんでいた。
目の前に現れたそれに引きつけられるように彼は手を伸ばし、指先でその形を確かめるその目は、それでもまだ何も映していない。
彼女は腕も預けるに任せたまま、彼の曇ったままの暗い瞳を見つめていた。
彼の指は彼女の指の先まで辿り確かめると、不意にその指を掴んで自分の唇に押し当てる。
口づける、という感じではなかった。
もしかしたら彼がしたかったのは「埋める」なのかもしれない、と彼女はボンヤリ思い、しかし彼の瞳はまだ何も映さないままだった。
唇で指の形を確かめていた彼は、そのまま体を引き寄せ、今度は彼女がそこにいることを確かめ、彼女はそれでもう彼の瞳が見えなくなってしまったので黙って目をつぶる。
その体もすべて預けた彼女は、太陽も沈んだ後眠れないことがあるのかしらと考えて、太陽だって一人では寂しいのではないだろうかと思い至る。
ここにいます、と伝えたくて、しかしどうすればいいのかわからなくて、彼女もまた手を伸ばして彼の髪を指先で何度も梳いた。
それでも彼はまだ確信することが出来ないのか、彼女が「いる」ことを確かめ続け、彼女を辿っていく彼の頭についに指先が届かなくなってしまう…と心細くなった頃にいったん体を離して耳元に唇を寄せた。
「いいか?」
わずかに呟くようなその声に黙って頷く。
彼は耳元に顔を寄せたままだから、彼女が頷いたのが伝わったのかどうかはわからない。
でもそれはそもそも単なる合図であって、その返事はあってもなくてもいいのかもしれなかった。
とにかく彼が囁いて求めたということは、彼女がそこにいることを得心したからに違いないと思って、彼女は安堵した。


他に音のないその宇宙の中で夫の荒い息使いばかりがやけに耳に付いた。
ようやく体を離した時、彼女は全身汗ばんでいて、首筋に髪の毛が張り付くのが気持ち悪くて指で掻き上げる。
自分がこんなに熱いのは太陽にしがみついていたのだから当然なのだと思った。
太陽は周りを照らすことをやめている時でさえその身の内はこんなに熱いのだ。彼女は何かとても大切な発見をしたように思い嬉しくなる。
僅かに漏れる月光に照らされて彼の金の髪が光っていた。
闇のような漆黒の髪に縁取られて、滲むように白い顔がそれを優しく見上げる。
沈黙の下にざわめきが蠢いているかのような空気が沈殿して、静寂がやっと自分の出番を確信して再びその場を支配し始めた。

太陽は月に包まれて、ようやく眠る方法を思い出したようだった。






翌朝、陽光の下で夫は変わらず陽気だった。
家族とたわいない朝の会話を交わす彼の金の髪が揺れて、その間から晴れ渡った空の様な瞳が覗く。

彼女は夫の空色の瞳が、とても好きだと思った。






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